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ある日突然抜け毛が増えた僕とストレスの話
三十歳を目前に控えた春、僕は人生で初めて、髪の毛がごっそりと抜けるという恐怖を味わった。それまでの僕は、髪の量に何の不安もなく、むしろ少し多すぎるくらいだと高を括っていた。しかし、その自信は、あるプロジェクトを任された日から、もろくも崩れ去っていくことになる。新しい部署のリーダーに抜擢された僕は、期待に応えようと、文字通り寝る間も惜しんで仕事に没頭した。連日の深夜残業、休日出勤は当たり前。食事はデスクでかきこむコンビニ弁当、睡眠時間は平均四時間。そんな生活が二ヶ月ほど続いたある朝、シャワーを浴びていた僕は、排水溝に溜まった黒い髪の塊を見て、思わず息をのんだ。これまで見たこともない量だった。最初は気のせいだ、疲れているだけだ、と自分に言い聞かせた。しかし、その日から、枕元の抜け毛、ブラッシングでブラシに絡まる髪の毛、スーツの肩に落ちた一本一本が、僕の心を蝕んでいった。鏡を見るたびに、頭頂部の地肌が昨日よりも透けて見えるような気がして、人と話していても、相手の視線が自分の頭に注がれているのではないかと疑心暗鬼になった。自信が、抜け毛とともに剥がれ落ちていくようだった。原因は、火を見るより明らかだった。極度のストレスと、それに伴う不摂生な生活。分かっているのに、仕事の責任感から、その生活を止めることができなかった。そんな僕を見かねた恋人が、ある週末、無理やり僕を連れ出して、自然豊かな公園へハイキングに連れて行ってくれた。木漏れ日の中を歩き、鳥のさえずりを聞き、久しぶりに深呼吸をした時、僕の張り詰めていた心の糸が、ふっと緩んだのを感じた。その日を境に、僕は意識して仕事から離れる時間を作るようにした。定時で帰る日を週に一度は設け、夜は湯船に浸かり、眠る前は本を読む。劇的に何かが変わったわけではない。でも、そうした小さな変化を積み重ねていくうちに、いつしか抜け毛の量はピーク時よりも落ち着き、僕の心も少しずつ軽くなっていった。あの時気づいたのだ。髪を守ることは、自分自身の心と体を守ることなのだと。